新たな出会い・研鑚・社会貢献の場を求めて



触れ合いがボケを防ぐ


         
  2011年3月11日に発生した東日本大震災により被災された地域の皆さま、 ご家族、関係者の皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。被災地の一 刻も早い復興をお祈りしております。



人生如何に生きるべきか

 
大げさなテーマを掲げてみたが、別に難しいことを書きつらねるつもりはない。途方も無く膨大な宇宙の歴史から見ると、人間の存在なんて、ホントに微々たるものと思わざるを得ない。昔々その昔に、元寇という大軍がわが国に来襲したらしい。そんなことを、中学生の頃に勉強したことがある。幸いにも神風なる強風が吹き荒れて敵の艦船は沈没することも多く、わが国は侵略されることも無かったとされている。

 その元寇の船に関してつい最近、「元寇の船、長崎・鷹島沖で発見」との報道があった。長崎県松浦市の鷹島沖の海底に、13世紀の元寇(げんこう)の沈没船がほぼ原形をとどめた形で埋まっていることが分かった。琉球大法文学部の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)らの研究チームが10月20日、明らかにしている。この海域では元寇船のものとみられる船の木材や武器などがこれまでにも引き揚げられているが、船体の構造を保った状態で確認されたのは初めてだと言われる。池田教授らによると、元寇船は鷹島沖合の水深20~25メートルの海底にあり、約1メートルの砂泥に埋まって横たわった状態で見つかった。

 船の背骨にあたる重要な部材(竜骨=キール)が幅約50センチ、長さ約15メートルにわたって確認され、キールの両側に沿って外板が2~5メートルの範囲で並んでいる。

 原形とどめる「蒙古襲来絵詞模本」
(東京国立博物館本)に描かれた元寇船
見つかった元寇船の一部 元寇の襲来ルート
出展 : asahi.com

蒙古襲来絵詞
『文永の役(1274年)』で矢が飛び交い、鉄砲が炸裂する中を
 モンゴル帝国連合軍へ斬り込んでいく竹崎季長と応戦・逃亡する蒙古兵 
出展 : ウィキペディア



 遥か彼方の聖徳太子や天照大神の類よりも、このように僅か数百年前の蒙古来襲どきの実物などが現われると、おっさんも血が騒ぐ。その時代の背景や人々の生活など様々な事柄をしりたくなる。

 上記の蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長の絵詞とも言われる。
鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が『元寇』における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっており、東京都千代田区皇居東御苑内の三の丸尚蔵館に保管されている。

 元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって二度に渡り行われた対日本遠征の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。主に九州北部が戦場となった。

弘安の役 絵図
出展 : ウィキペディア



 国難の今. 歴史上の事だと思っていた1281年の元寇(弘安の役)の船が そのまま私達の目の前に現れた。 素晴らしいロマンを感じると同時に、元寇船:「神風伝説」の解明も進むのか。長崎県松浦市の鷹島沖の海底で発見された730年前の元寇船。構造が分かる状態で初めて見つかり、琉球大の研究チームは「構造や大きさ、建造技術などの検証の可能性が開ける」と意義を強調する。1281年の弘安の役で鷹島沖に約4400隻が集結、大半が暴風雨で沈んだとされる「神風伝説」の実態解明が待たれる。

 「神風」。文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料では「一夜明けると蒙古船が消失していた」との事実のみが記されているとされる。公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されている。高麗の史料、『高麗史』などには、撤退途中に風雨が起きて多数が座礁した事が記されている。しかし日本側の史料にその記載がない。気象学的には過去の統計に台風の渡来記録がないことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。文永の役に関しては、台風の可能性はほぼなかったと、今日では見なす学者が多い。

 弘安の役においても、当時の日本が知り得なかった江南軍壊滅の理由を台風や熱帯低気圧の影響としながらも、博多沖の東路軍は、それとは違った理由で壊滅したという説もある。文永の役については現在では壊滅的な被害があったかについても含め多くの疑問が持たれているが、弘安4年7月30日から翌閏7月1日(1281年8月15日 ~ 8月16日)にかけては、京都でも激しい風雨に見舞われたことが日記類などの記録にある。このため、弘安の役での東路・江南両軍の壊滅の原因は、台風であるとの説は現在でも有力視されている。

 なお、軍歌の「元寇」の歌詞にも『弘安四年夏の頃』という一節があるが、文永の役に関しては何も触れてはいない。また、今谷明氏や岡田幹彦氏によると、日本は神風によって勝ったのではなく、日本が独立国として存在し続けるために朝廷と鎌倉幕府が協力し、挙国一致体制をもって蒙古軍と戦い、蒙古軍に大きな損害を与えたことが日本の勝因であるという。また今谷明氏は、かりに台風がなかったとしても、元軍による長期占領は不可能であったともしている。

 当時の日本国内では、対元戦争を「日本の神」と「元の神」の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識され(天人相関思想)、日本を救った暴風雨を神風と認識した。また神風の観念は「神国思想」(日本を神国と見なす)へと発展し、江戸期や明治期を経て、太平洋戦争時の神風特別攻撃隊などにまで到る。
 かき立てられる歴史ロマンに、地元・鷹島では「観光の目玉に」と期待が膨らむ。宇宙の長い歴史からみれば、わずか700年前のことである。だが、少なくとも自分の生存中に知りえたことゆえに、それが現実となり眼の前に現われたことは、何ともいえぬ不思議な感覚に襲われるものである。



   
<閑中寸話>

 おっさんも本年74歳を超え、次第、次第に文章をつづるのが億劫になってきた。書きたいという意欲が湧かないのだから、もはや辞める時期が迫っているのだろうと思う。このサイトで書き始めてから来年の3月で満8年になる。そろそろ引き際も間近と考え、自分の身内のことを少し書いてみよう。何を書いても、引き止める者もいなくなったことだし.。

 身近な親族を振り返ると、精々祖父母の段階までしか記憶にはない。そんなことは当たり前だが、養子であった父はおっさんが結婚して間もなく亡くなった。ちょうど60歳だったと思う。伴侶の看護婦を亡くし一人で医院を開業していた昔の帝国軍人も、晩年はまったく元気がなかった。やはり男の一人住まいは上手くゆかない。特に威張り放題の生活だったから、一人身は相当堪えたものと予測する。

 人に頭を下げることの無い生意気な医者であったためか、友だちなどは誰一人として聞いたこともない。患者から贈られる酒が押入れの中にたくさん並んでいるのをよく見かけた。最初で最後の肉筆は、名古屋の安物アパートに住むおっさん夫婦への「とても孤独だ。父は寂しい。二人とも元気で暮らせ」との一枚のハガキだけであった。養子である父は祖父に嫌われ、あちこちの病院を転々としたようである。幼い頃の両親の離婚は、子どもたちにも大きな影響を与えた。このため、おっさんの兄弟姉妹はバラバラとなり、長じてからも親しく会うことはない。

 祖父の房吉は、江戸時代から四代も医業を続けた渡辺弘庵の養子となった。その子どもたち11人も皆高齢となり本年の3月、98歳を前におっさんの母が亡くなり、残るのは95歳の叔父と90歳の叔母だけとなった。おっさん自身は父よりも、母の兄弟や姉妹たちとの接触がおおかった。しかし、こちらが年齢を重ねれば先方も年をとり、つぎつぎと姿を消していった。

 祖父は大正13年から昭和17年まで、18年間も神奈川県の医師会長を務めたので、インターネットで検索するとたくさんの記事が出てくる。徳富蘇峰に私淑し、自ら「蘇竹」と称し、陶渕明を愛した歌人でもあった。また、大相撲のひいき筋、すなわち「タニマチ」でもあった。1945年、ニューギニア戦線から辛うじて生還した長男を見ることもないままに、ひっそりと亡くなった。
 当時としては68歳の長命であった。著作も結構残した。おっさんとの接点は殆どない。唯一の思い出は、横浜の実家で接客中の祖父の部屋の障子に、指をなめて穴を開け、中を覗きこんで叱られたこと位だ。

 祖父の著作に「我輩は黴菌である」というのがあった。夏目漱石の「我輩は猫である」を真似した題名である。おっさんは、この本からヒントを得て中学生のときに作文の優秀賞を得た。そんなことが現在ウエブサイトで、この「コラム」なる小欄を書く原点になったのかも知れない。数年前に92歳で亡くなった叔母(母の妹)も、かなりの短歌や著作物を残した。一方、わが母は地元の「下野新聞」のテレビ批評欄への、投稿常習人であった。また歌が好きで、各地のノド自慢大会への出演で賞品を稼いでいた。たまに往くと、狭い部屋は優勝カップなどで溢れていたものである。

 老人ホームに入ることはなかったが、ディサービスでいく宅老所では、認知症の方々との童謡の合唱などは極端に嫌った。演歌一筋で元気いっぱいだったが、家の中で転んだのが致命的で最後の3年間は流石に痴呆症気味であった。


日本の人口推移と世界人口




 2010年10月1日現在で、国内に住む日本人の人口は1億2535万8854人。5年間で37万1294人(0.3%)減った。総務省が10月26日、5年に1度の国勢調査の確定結果を発表した。日本人と外国人を分けて統計を取り始めた1970年以降、初めての減少となった。
 本格的な人口減社会になったことが国勢調査でも裏付けられた。
 外国人約164万人と、「国籍不詳」とされた約105万人を加えた総人口は1億2805万7352人で、前回から28万9358人増えた。ただ増加率は0.2%にとどまり、20年の調査開始以来、戦時下の45年を除いて最低だった。住民基本台帳に基づく人口は06年から減少傾向にある。

 総人口のうち女性は6572万9615人(51.3%)で、男性が6232万7737人。高齢化も進み、65歳以上は前回から2.8ポイント増えて23.0%となり、世界で最も高かった。 わが国の高齢化率は他国を圧倒し群を抜く。老人だからと、ノンビリ構えておられる事態にはない。赤字大国のわが国では増税路線は避けられず、さらには年金の受給も68歳からなどと、とんだ話も出てくる。すべては政治家にお任せ、などと言っておれない状態にある。しっかり国政の行方をチェックしていないと、孫や子の世代に大きなツケを残すことになる。高齢者も大きな声を出さねば、この直面する少子高齢化の時代は乗り切ることは出来ないだろう。


           
 我が家近辺を始め市内各所の葬祭場では、老人には辛い厳冬期はもちろんのこと、熱中症に悩まされた酷暑の夏へと毎日のように葬儀が行われていた。東日本大震災による原発の事故、そして発電の中止により節電を呼びかけられたが、途中から節電も余裕が生まれた。
 「高齢者世帯では積極的にエアコンを使うべし」と、熱中症防止の対策がとられた。節電効果は目標を上回り、むしろ熱中症による高齢者の体調悪化や死亡率などが増加したためである。

 最近特に思うのは、少子高齢化の進展に伴い高齢者の死亡数も増加の一方と推測されることだ。家で留守番などしていると、かかってくる電話は日常的にあまり必要としない電話が大半である。健康(補助)食品と称するものや、リフォーム関係、マンション購入の案内、保険の勧誘などが多く、殆ど当方には用事がない。
 こちらが暇なときは、適当に先方のお相手をしていると、相手の手口もしっかり読めて面白いこともある。それでは、またね~などとプツンとサヨナラする。ここで始めて先方も、「上手いことあしらわれた」と感じるかも知れない。最近特にしつこい電話は、「墓地の購入を勧める電話」や「葬斎場の互助会入会の電話」である。こんなものが、なんども繰り返しかかってくる。日中に旦那がいると分かると、先方のターゲットにされてしまうようである。当初は電話帳からランダムに電話していたものが、完璧にリストアップされてしまうようだ。

 それとは別に、新聞に折り込まれてくる「墓苑関連」のチラシも日々に増加している感じがする。彼らが関連するビジネスは、これからも需要増大 ?が見込めるから、益々業者も増えることだろう。おっさんは家族に対して、常々葬儀はしなくてよい。火葬を終えたら骨は砕いて灰とし、土に戻す樹木葬か太平洋に繰り出して、海に撒いて水葬して欲しいと頼んである。しかし、水葬はダメだ。高くつくなどと反対もされる。死んでしまったあとは、本人にはどうにもならないことは知りつつ、長年お世話になった魚たちに灰くらいは食べてもらっても結構だ。それが生物の輪廻であろうと思っている。難しいのは、死者には残る家族を指導出来ないことだ。本人の遺言を守るかどうかまではチェック出来ないのが残念でもある。

 わが国の高齢化率は、上記の図に示したごとく世界№1の23.0%になっている。右肩上りも激しく、他国を圧倒している。この傾向は益々進むであろう。わが団地に限ってみると、何と50%から60%程度の可能性がある。個人情報とやらで正確な数字はつかめていないが、34年前の団地開設以来入居している者から見れば、おおよその見当はつく。
 不幸にしてガンなどで亡くなられた方を除いて、自宅から殆ど外出されない方をみると、断然男性が多いように見受けられる。

 それは何故だろうか。僅かな推理力を働かせてみよう。男性諸氏は会社生活などで燃え尽きてしまったのだろうか。いや、そんなことはあるまい。外出が少ないとか、団地内の人々との交流も少ない。そんなことは、会社時代の生活にどっぷりつかった習性から抜け切れないことに大きな原因がありそうに思う。未だまだ若い定年退職者が新たな社会生活への順応性に悩み、新たな目標に挑戦する意欲が湧かない。そんなところに根源があると思えて仕方ない。
 会社での地位などが高く、プライドの高い男性ほど、定年後の生活に溶け込めない傾向が目立つ。そんな態度、あるいは気持ちでは地域の方々とのコミュニケーションはとれない。次第に閉じこもりの生活にのめりこむ傾向が強い。

 その結果は、「テレビばっかり見ていたり」「自分の殻に閉じこもってしまう」のだ。酒の飲みすぎでアルコール中毒から認知症になったり、脳梗塞や精神異常になる例も多い。外に出てみると奥さんに車椅子を押されたり、手を引かれてリハビリに励む人が目立つ。不思議なことに、女性にそんな姿はみかけない。やはり女性は日々の掃除・洗濯・食事の用意・買い物など日常的に行うことが多い。そんなことで、暇をもてあますことはないようだ。
 結構な年齢の女性が、毎日自転車で買い物などで走りまわるのは危険も伴うが、ご本人たちは元気いっぱいだ。一方、何も新たな挑戦を描けない男性は次第に元気を失っていく。特に奥さんを亡くした男性たちが、いつの間にやら姿を消しているのはとても侘しい。

 おっさんの団地では、こんな引きこもりの男性を引っ張り出そうとの意図から、毎月一回「おしゃべり会」なるものを催している。しかし毎回参加する方々は限られ、新たな男性参加者はゼロだ。もう5年も毎月行っている。何をするでもないが、単純な「おしゃべりの会」にも参加出来ない実態を目にすると、女性の活力と挑戦意欲に完全に負けていると感じざるを得ない。こんなことの積み重ねが、女性上位の長寿社会になると思われる。
 簡単に言えば、他人との会話の不足にある。会話の不足は、人との触れ合いをなくする。ここが最大の問題点と思えて仕方がない。 

                  


 去る10月4、5日に鎌ケ谷市主催の「老人クラブの旅行会」に行った。市内には30の老人クラブがある。その日バスは2台用意され、参加する老人クラブの近くを回り、参加者全員を乗せて「妙高高原・赤倉温泉」へと向った。ここで分かった大事なことは、30の老人クラブのうち、参加したのは16団体だけであったことだ。中には会長だけの参加というものもある。

 市の高齢者支援課の女性・男性職員がそれぞれ一人ずつ、各バスに分乗し、我々を見守ってくださった。ここでも総数64名のうち、男性は22名に過ぎなかった。女性だって、みなが皆、元気そのものというわけでもない。足下の危うい方もおられる。でも、参加する気持ちは大切だ。不参加となった市内老人クラブ残りの14団体はどうしたのだろう。いちいち詮索すべきものではないが、ちょっと気になる問題でもある。
 おっさんの所属するクラブでは参加者12名のうち10名が男性で、世の趨勢とは相反する結果であった。しかし実態は大いに異なる。毎月の例会では30数名が集まるが、圧倒的に女性が多い。自治会の倉庫を活用して毎週行うカラオケの参加者も大半は女性だ。なにげなく旦那様は ?と尋ねると、「一人2階に閉じこもっている」「ディサービスに行っている」「家で介護している」「30年前に亡くなった」などのお話が漏れてくる。

 夫婦二人とも健全に!とは行かぬとしても、年老いてくればいろいろな悩みも増えてくる。12年間も旦那様の介護をしている方も、みかけはそんな素振りは一切見せない。そんな大変な生活ながらも、ちょっとの時間を利用し、人との交流と自身の健康維持のために、地域の方々との触れ合いを大切にしている。寝たきりになって家族や社会に負担をかけぬためには、身体の管理とともに、心の持ちようが大きな役割を占める。男性諸君よ、積極的に他人との触れ合いを求め、元気を出そうではありませんか。いまや、70歳は老人とは言えない社会ですね !!!



      
~ 鎌ケ谷市老人クラブ連合会 妙高・赤倉温泉旅行の写真から ~