新たな出会い・研鑚・社会貢献の場を求めて

**** 戦後60年の夏が来た ****

  太平洋戦争終結後すでに60年の歳月が流れ、またあの暑い夏が訪れてきた。昭和20年終戦の年に生まれた人たちも、はや還暦を迎えようとしている。まさに、「光陰矢の如し」か。過ぎ去った日々は早いものである。半世紀を経ても故郷の山々に変わりはないが、人々の生活は様変わりである。

 オッチャンの祖父は終戦の8月15日を間近に、65歳で病死した。77歳になるいとこが、最近ある会報に「60年間の角界ファンの思い出」として小文を載せているのを見た。祖父とオッチャンの接点は殆どない。たまたま来客があったときに、指につばをつけ障子に穴をあけて中を覗き、凄くしかられたことぐらいである。幼稚園児の頃であろうか。

 祖父はかつて神奈川県の医師会長であり、大病院を経営していた外科の名医だった。今でもその豪邸は山王山という横浜の高台に残っている。祖父は大変な角通兼相撲ファンで、友綱部屋の横綱の太刀持ちをしていた元関脇金の花(のちの大戸平)のタニマチであったという。その関係で当時新しかった豪邸に金の花、三杉磯、真砂石などが泊まっていたらしい。彼はタニマチに対して大変な気を使い、場所前の稽古に招待したりマス席をとってくれていた。
 祖父は毎場所、その代わりに当時の大金50円、100円を贈っていたという。その頃、相撲は今のような総当りではなく、東西対抗の形をとっていた。東軍は立浪三羽烏(双葉山、羽黒山、名寄岩)の全盛時代で、西軍には出羽一門の男女の川、前田山、笠置山、安芸の海などがいた。70連勝をストップされた安芸の海との対戦では、双葉山は悲壮なマスクをして、それが神々しく見えたという。

 そんな大相撲も、この60年で大きな変化を見せたものの一つであろうか。いっとき高見山から始まり小錦、曙、武蔵丸を輩出したハワイ勢は今や一人もおらず、7月24日に千秋楽となった名古屋場所では横綱朝青龍が13度目の優勝である。5連覇は千代の富士以来で史上7人目。優勝回数は双葉山、武蔵丸を抜いて単独6位になった。あと2回優勝すると輪島を抜いて5位になる。ここ10場所では16年9月の魁皇以外は全て朝青龍の優勝だから、更新は今や時間の問題である。

 まことに情けない話だが、わが国伝統の大相撲では、日本人力士が下馬評でも優勝候補にあがることはなくなった。朝青龍の一人天下が続いている。大関陣は、たまに準優勝でもすると「来場所は綱とり」などと騒がれるが、これがとんだ食わせ者で優勝どころか10勝もできずに負け越して大関カド番を迎える有様である。律儀なことに、3人の大関が代わるがわるカド番を務めている。千代大海にいたっては、史上最多の8度目のカド番というから、言うべき言葉も失う。関脇陣でも、次場所で好成績をあげれば「大関」などと言われると、途端に負け越しだ。当分は日本人横綱の誕生は望めそうもない。

 
名古屋場所で最後まで優勝を争ったのは、何とブルガリア出身の琴欧州である。三賞では、横綱に土をつけた琴欧州の殊勲賞は当然ながら、敢闘賞もロシア出身の黒海が獲得した。辛うじて技能賞に普天王が選ばれている。(冒頭の写真は普天王)いまや大相撲は、モンゴルと東欧勢に主役の座を奪われたと言ってもよいだろう。
 平成17年6月時点での外国人力士を調べてみた。モンゴルが幕内力士7人を含めて34人で圧倒的に多い。ロシア5人、中国6人、韓国3人と続き、それにトンガ、ブラジルが各2人。あとはカザフスタン、グルジア、チェコ、ブルガリア、エストニア、ハンガリーなどの東欧勢が1人ずつだ。

 大相撲に、「史上初の金髪関取が誕生した」というニュースが面白い。秋場所の番付編成会議が7月27日、名古屋市の愛知県体育館で行われ、5人の新十両が決定。エストニア出身の把瑠都(ばると、20=三保ケ関)が昇進を果たした。金髪関取の誕生に、伝統を重んじる角界からは「染めた方が良いのでは」との声も上がっているそうだ。出世に髪の伸びが追いつかず、大銀杏(おおいちょう)は、来年春場所以降の予定とか。
 ブルーの瞳にゴールドの髪。新十両昇進を決めた把瑠都は197センチ・165キロの巨体である。これまでブロンドの髪を持つ力士が関取になったことはなかった。

 「異色」の関取の誕生すれば大銀杏を結うことになるが、金髪の大銀杏は前例がない。角界のルールブックにあたる日本相撲協会寄附行為にも髪の色についての規定はなく、学校の校則のように「金髪はダメ」という規則もない。ただ、相撲は神話伝承の時代より続く日本の国技だ。協会も頭を抱える。北の湖理事長は「まず油をつけて、見た目がどれぐらいになるかだ。それでも色が落ちて見えないようなら、染めることを考えないと」と黒髪に染めさせる可能性も示唆した。

 幸いなことに毎日髪結いに使うビン付け油の影響で、来日当初に比べて把瑠都の髪は金色から少しくすんだ黄土色になりつつある。審判副部長も務める師匠の三保ケ関親方(元大関増位山)は「油をつければだいぶ暗くなるし、大丈夫だと思う」と楽観する。一方で、生活指導部の山科親方(元小結大錦)は「髪を束ねるちょんまげとは違い、大銀杏は薄く広げるので、光の当たり方によっては、濃くならずに金髪が目立つかもしれない」と懸念を示し、「把瑠都の髪が伸びたら、みんな(協会)の前で大銀杏を結わせて、判断するのもありでは」と話した。まだ入門して1年半足らずの把瑠都は今年春場所でやっとまげを結ったばかりで、大銀杏にはまだまだ髪の長さが足りない。「結論」が出るのは来年春場所あたりになりそうだ。
(把瑠都の項 参考:日刊スポーツ7/28Web版から)

 注目を集めるのはルックスだけではない。初土俵から所要8場所での新十両昇進は、外国出身力士で小錦に並んで史上最速タイのスピード記録だ。この日の会見でも「新十両で何番勝ちたいか?」の質問に「全部」と即答した。実力もハートも折り紙付き。大銀杏を結うころには、幕内にいる可能性も十分にある。髪だけでなく実力でも、今後の角界に旋風を巻き起こしそうだ。
 外国人力士が脚光を浴びる中で、日本人力士の休場が多い。名古屋場所では十両以上の関取の休場は10人だ。2桁になるのは03年以来だという。多くの有望力士が怪我により力士生命を失うのを目にする。力士は食事前の猛稽古に始まり、普通人の数倍の食事を摂り、充分に寝て無理やり太らせた身体を作る。そこに過重な力が働くならば、怪我が起きて当然だ。元々、本来の人間に反して作られた身体を持つ改造人間なのである。

 オッチャンは、これまでズーッと今の土俵の構造がおかしい、と思ってきた。土俵は意外と小さい。大きな力士がこの狭い中で力の限り戦う。勝つためには、無理な姿勢も取らざるを得ない。ましてもつれ合って土俵下に落ちるわけだから、怪我をしないのがおかしい。土俵の中と外の高さを同じにするか、棒高跳びのように下に厚いクッションを設けるとか考えられないものか。怪我によって力士生命を失わせないことが、大相撲反映のための大きな要素ではなかろうか。
  当月は触れないが、プロ野球からのファン離れも激しい。巨人一辺倒できたテレビの視聴率は落ちる一方である。危機感を抱いたオーナーたちも、やっと改革に動き出した。早めの改革こそがファンを取り戻すことになるだろう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
先日、東京に出る機会があったので、ついでにと暑い日ざしの注ぐ中、靖国神社を訪ねてみた。昔、通いなれた地下鉄・九段下駅で降り、しばらく歩くと神社の大きな鳥居が目に入る。久しぶりに見る境内は緑も多く広々としている。ミンミンゼミの鳴き声がひと際大きく響く。

  鳥居をくぐり大村益次郎の像を横目に見ながら真っ直ぐ進むと、本殿に辿りつく。遺族の方々の参拝もボチボチと見受けられる。8月15日が近づいてきたせいでしょうか。ご遺族にとっては、まことに当然なことでしょう。ところが日本の首相や官房長官などの参拝については、中国や韓国などから「首相の参拝絶対反対」と厳しい注文がつけられている。

  先の大戦において戦争遂行責任者として、「戦犯とされた東条首相などが合祀されている」からというのが、大きな理由である。この点に関しては、わが国の首相は、「戦没者を追悼するのは当然のこと」として、譲らない。歴史教科書の問題もあるが、まずこの靖国神社の実態はどうなのか。オッチャンには確認することが大事だった。神社の宮司やその責任者のお話をお聞きしたわけではない。自分の目で見て、そして神社発行のパンフレットなどによって、靖国神社の実態を紹介してみたいと思う。

  靖国神社の中で唯一、一般の人々に公開されている建物がある。それは、本殿の右手一帯に展開する遊就館である。建物は近年増築されて、かなり大きな展示館となっており、周辺の敷地も広い。早速、館内に入ってみた。1階のロビーは無料だが、2階の展示場などは有料である。全てを見るにはザッと見ても2時間から半日はかかるという話なので、1階だけを見学した。1階の企画展示室では、「日露戦争百年展」が開催されていた。
  日露戦争の戦史を絵巻仕立ての年表とし、各作戦の概要とともに解説を行い、各戦闘における戦没者の「軍服」「ご遺品」や「お手紙」を展示。また、日本海海戦関係では、横須賀の記念艦「三笠」所蔵の「東郷元帥指揮刀」「三笠軍艦旗」をはじめとする記念品を展示。内部は見なくてもおおよその見当はつく。

*********************************************************************************************
日露戦争についての説明は、つぎのようになされている。
............日露戦争は、明治の先人達が国家存亡の危機をむかえて大国ロシアと戦ったものであり、この未曾有の国難に際し、国家、国民は明治天皇の御下に一丸となり戦いました。
............将兵も銃後の国民も尽忠報国に燃え.........私事をなげうって勇猛果敢に戦いぬいた........日露戦争百年に当たり、靖国神社に鎮まる..英霊88,429柱の..遺勳を顕彰する....(中略)というものである。
**********************************************************************************************

  入館したロビーで、まず飛び込んできたのは艦上零式戦闘機、すなわちゼロ戦である。日の丸も鮮やかな、ピカピカに磨かれた機体は、今にでも飛び立ちそうなものだ。野戦砲もある。そして機関銃に泰緬鉄道を走った機関車も、誇らしげに展示されている。

零戦   泰緬鉄道の機関車
ゼロ戦   野戦砲  機銃  泰緬鉄道の機関車
クリックで拡大表示 クリックで拡大表示

  8月15日が近づいてきました。果たして小泉首相は参拝を実行するのだろうか。先の大戦終結後60年も経つのに、最も近くて、実は遠い国、「韓国と中国」との関係も真に正常化できない歴代の政治家たち.........。次々と後任の首相に解決を委ねる無責任な政治家たちには呆れて物も言えない。自らの信念は結構だけど、そのツケを後世の世代に先送りするだけでは、何時になっても解決にはならない。何の関係もない子孫たちは、永久に謝罪をつづけねばならないのだ。

  遊就館の、ほんの一部の展示品や冊子、パンフレットなどからみても、戦死された英霊を称えるのみで鎮魂の言葉一つないのである。このような状況をみて、靖国神社の実態が分からぬとすれば大変憂慮すべきものといわねばならない。自らの信念とは、戦争賛美そのものになってしまう。
遊就館とその周辺は、まさに軍事博物館なり。ゼロ戦、野戦砲の展示、そして特攻隊員の雄姿の像、巨大な砲弾の数々。
  驚いたのは、「帝国陸軍」などと刺繍された旧陸海軍制帽などの戦争記念品が販売されていることだった。そして、きわめつけは、明治以降の全ての戦争は「正義のため」と決め付けていることである。


  ある友人は、わたしの報告について次のように述べている。

  一国の首相が戦没者に哀悼の意を捧げるのは当然の行為と考えますが、その靖国神社が明治以降の全ての戦争は「正義のため」と礼賛しているのであれば、戦火に蹂躙された国々の理解を得るのは難しいですね。参拝中止がベターであることが理解できました。国家神道を奉ずるのが靖国神社であり、教理を墨守するというのであれば、政教分離の理念に則り戦没者鎮魂の施設を別途作るより仕方がないですね。それにしても、靖国神社の宮司たちは何を考えているのか......

汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである 
        山本 夏彦

  遊就館は一目見て軍事博物館と感じたが、実は自らそれを明らかにしている。

《遊就館パンフより一部抜粋》
  明治15年我が国最初で最古の軍事博物館として開館した遊就館は、時にその姿を変えながらも、一貫したものがあります。一つは殉国の英霊を慰霊顕彰することであり、一つは近代史の真実を明らかにすることです。
  近代国家成立のため、我が国の自存自衛のため、更に世界史的に視れば、皮膚の色とは関係ない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった多くの戦いがありました。それらの戦いに尊い命を捧げられたのが英霊であり、その英霊の武勲、御遺徳、を顕彰し、英霊の歩まれた近代史の真実を明らかにするのが遊就館の持つ使命であります。(後略)

  このような文言の元に、明治維新から日露戦争、大東亜戦争にいたる靖国の神々を恭しく展示しているのである。パンフレットを見る限りでは、日清戦争の錦絵、乃木希典・東郷平八郎像、橘中佐の軍服、真珠湾九軍人写真、トラ・トラ・トラ電文、阿南大将の遺詠と遺書などが目立ち、赤紙一枚で狩り出された一般市民(神様)の関係はあまり見受けられないようである。
  大展示室なるところには、大戦末期の悲しき遺物が展示されている。人間魚雷「回天(一型)」、ロケット特攻機「桜花(一型)」、艦上爆撃機「彗星」、九七式中戦車などなど..............。



 特攻隊勇士を賛える石碑 遊就館で販売される旧日本軍の帽子など
 
← クリックで拡大表示→


             靖国神社のご紹介 〜靖国神社社務所発行の「やすくに大百科」より〜

  神社社務所が発行する「やすくに大百科」は、子どもたちに分かりやすく説明するもので、漢字には全てふりがながついている。神社にいる白鳩のポッポちゃんが説明する。これを短文化してみましょう。

1.靖国神社は、今から130年以上も前の明治2年に戊辰戦争の犠牲者を弔うために建てられました。当初は「東京招魂社」といわれましたが、明治12年に「靖国神社」と改められたのです。

2.神社は明治天皇が命名したもので、「靖国」とは、「国を安らかでおだやかな平安にして、いつまでも平和につくりあげよう 」という、天皇陛下の大御心がこめられているのです。

3.戊辰戦争のとき戦死された3500余柱の神さまをお祀りしたのが始まりで、佐賀の乱、西南戦役の方々も、祀られている のです。けれども、日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには、悲しいことですが外国との戦いも何度か起こったのです。日清戦争、日露戦争、そして大正時代の第一次世界大戦、昭和に入ってからの満州事変、支那事  変、そして大東亜戦争(第二次世界大戦)が起きました。
  こうした事変や戦争に尊い命をささげられた、たくさんの方々が神さまとして祀られています。

4.靖国神社には、なんと246万6千余柱の神さまがおられます。軍人だけでなく、女性の神さまも5万7千柱いらっしゃいます。少年少女も神さまとして、祀られています。
  大東亜戦争では沖縄にアメリカ軍が攻めてきたとき、沖縄師範学校や九校の中学生が「鉄血勤皇隊」として軍人と同じよ うに戦いました。また、「ひめゆり部隊」「白梅部隊」などの女子生徒も戦場で働き、そのほとんどが戦死しました。今は靖 国神社に祀られ、安らかに眠っていらっしゃいます。

5.また、大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に"戦争犯罪人"という、ぬれぎぬを着せられ、むざんにも生命をたたれた1608人の方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています。



当地(鎌ケ谷市)では、7月10日から9月4日まで戦後60周年事業として、三橋記念館2階展示室において「戦争の記録と記憶 in 鎌ケ谷」と題する鎌ケ谷市郷土資料館企画展が行われている。これは靖国神社とは全く違った角度からの展示会であり、一般市民からの目から見た戦争の歴史です。
  この8月はテレビでも、多くの戦争企画物が放映されることでしょう。先日の朝日新聞社説にもあったように、我々は一方に偏ったものではなく冷静に過去を振り返り、二度と過ちを繰り返さぬことが大切です。そして近隣諸国をはじめ、世界各国との友好関係を保つことが戦争回避には必須のことでしょう。
  太平洋戦争終結後60年に当たり、たまには過去をしっかりと自分なりに検証してみては如何でしょうか。


(C.W)