上海紀行
Part 25

ライター:千遥

    宋慶齢を訪ねて

ある日のこと、隣室の女朋友の佐々木さんが街中まで出掛けるというので、ご一緒することにした。彼女は、外国語書店と孫文の奥さんでもあった宋慶齢(そう・けいれい)の故居を訪ねたいとのことだった。私も宋慶齢には興味があったので故居までは行動を共にすることにした。道案内は、既に調べてあるという彼女にまかせる。

まずいつもの路線バスに乗り外灘(ワイタン)の手前で降り、あとは歩いていけるということである。だが、どうも道を間違えたらしく、直ぐ着くはずなのになかなか到着しない。彼女も間違えたことに気づいたらしい。それではとタクシーに乗ることにし綺麗な車がくるまで数台待っていた。見るからに古いポンコツタクシーは、ドアが閉まらなくて折角乗り込んだ数人の客が降りるのを目撃したことがあったからだ。目的地までは予想どおり基本料金の10元で直ぐに着いた。



故居に設置された宗慶齢像

 故居は公道に面しており、周囲はコンクリートの塀でしっかりと囲まれていた。入り口が狭いから、うっかりすると見逃してしまう。門前には制服着用の管理人のおじさんが姿勢を正して立っている。建物の内部には中国人も殆ど見受けられない。建国の英雄も既に忘れられる存在なのか。手元に宋婦人の肖像が入った入場券がある。入場料を支払った証拠品だが、一般は7元で学生は5元とある。長女の靄齢(あいれい)は銀行家孔氏と結婚し、宋慶齢は革命家、夫人運動家として活動し、のちに孫文と日本で結婚式を行なった。深い愛に結ばれた二人の間に子どもはいなかったのである。



故居近くの高級住宅街
 
 慶齢は宋家三姉妹の次女である。三女の美齢(びれい)は将介石と結婚して台湾に渡り、将介石の死後も台湾政界に影響力を 及ぼしていた。その後ニューヨークに滞在していたが2003年10月遂にその波乱に富んだ106年に亘る生涯を終えたのである。
 
 不思議なことに、宋慶齢は辞書で見ると「song Qingling」となっているが、いまだに私が大事に保有する入場券の控えには
「soong chingling」となっているのだ。
この辺の違いは何故なのか。未だに確認していないのは中国語学習者の端くれとしては、まずいことこの上もない話である。故居内部には孫文の書斎や中国建国にいたるまでの孫文の活動の模様などが詳細に展示されていた。若かりし頃の宋家三姉妹の端正な写真の数々が強烈に心に残っている。




撮影禁止の中国絵画

故居は西洋風の2階建てで、南面には丁寧に手入れされた緑の庭が広がり木々も形よく植栽されている。だが、質素な慶齢の生活ぶりを示すかのように派手な色彩はない。茶褐色の瓦屋根・バルコニーの柱やベランダの真っ白な手すりが印象的である。

孫文は中国と台湾双方で敬愛される「建国の父」であるが、慶齢は孫文死去後には国民党左派に立ち、中華人民共和国成立後に国家副主席の地位に就任している。この故居は名誉副主席に退いたあと与えられたものである。

1997年に製作された日中合作の「宋家の三姉妹」によれば、「革命とは愛である。愛もまた革命である」と書かれた聖書は、蒋介石の形見であり、また宋三姉妹の父の形見でもある。「革命には愛が必要で、愛がなければ革命はなされない」という言葉は記憶に残るものだが、宗家三姉妹の父、チャーリー宋は「聖書の印刷で財を得た」といわれているが、当時の中国人の常識を遥に超える識見を持ち、幼い三姉妹を米国に留学させる先見性と才覚を持っていた。
 その影響からか長女は富を愛し、次女は国を愛し、三女は権力を愛したともいわれているが、革命の嵐の中で彼女たちに、父はどのような影響を与えたのであろうか。



宋慶齢愛用高級乗用車「中華」

宋慶齢の故居をあとにすると、最初の予定どおり私は一人で慶齢のお墓を訪ねることにした。地図の上からは歩いていけると目算していたが、行けども行けども目的地に到達しない。毎日のように変化する上海の建設に地図が追いついていなかった。お墓は公園となっているから、開園時間は充分にある、と思っていたのがまた大間違いであった。4時30分以後の入園はできなかったのである。仕方が無い。外部から全体の写真をとった。近づいてみると門前の柵の正面がお墓であることがわかった。写真を撮っていると、入口受付の男性から声がかかった。それは私にも分る言葉だった。

要約すると「不好意思、明天再来!」と言っている。4時30分からはもう入れない。申しわけないけど明日また来て下さい。と言っていた。こんなところまでまた来るわけにはいかない。仕方なく戻ることになる。それからが結構苦難の道だった。知ったふりしてウロウロ歩くと、いろいろとまごづくことがあるものだ。 (続く)



 

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