新たな出会い・研鑚・社会貢献の場を求めて

******  安部首相訪中 と 美しい国  ******


  秋10月、行楽に運動にと、まさに絶好の季節であった。抜けるような青空と冷たい秋雨が交互に訪れてきたが、これは「恒例の行事」ゆえ、まあ仕方がないか。なぜか本土を襲う台風はあまりなかったように思う。おかげで、その被害もまた予想外に少なかった気がする。雨荒らしの中、茨城・鹿島市の沖合いでは、外国船籍の貨物船が2艘座礁するという事故が起きた。これは気象予報を無視して荷揚げを強行した結末ゆえの人災ともいえる、いたし方ない面もあった。海上保安庁のヘリコプターなどにより、外国人乗組員全員が救助されたのは何よりも幸いであった。
 
  街中のマンションに住み、日がな一日を書斎?で過ごしていると季節の移ろいを知る間もなく日々が過ぎていく。オッチャンも、典型的な老人スタイルになってきたようだ。そのような暮らし方をしたくはないのだが、終わってみれば、毎日同じような生活をしていることに気づくのである。まことに情けないが、そのような習性は次第次第に身についてくるのかも知れない。これで諦めることなく、もう一段と活発な活動をせねばならないなぁ。

    安部首相 電撃訪中

  この秋の最大の収穫は、何と言っても安部首相による中国と韓国訪問である。そして、国家間のいびつな関係修復への道筋をつけたことであろう。小泉前首相による「信念の靖国参拝」と、歴史問題などから「面子にかけても絶対に譲れない中国と韓国政府」。お互いが自己の主張にばかり拘れば、行き着くところは国交断絶しかない。相手の気持ちも察しながら「落としどころ」を探り、実現させる。これが政治というものだろう。もちろん、我々の生活でも、そのような知恵を働かさねば、隣人や町内の方々との間も疎遠のままになってしまう。気まずい毎日を過ごすのは誰しも望まないところである。

  冷え込んだ日中・日韓関係を打開するには、わが国のトップ政治家が交代するこの時期が最良だったのは言うまでもない。特に、中国はその時期を狙っていたのは間違いないと思われる。
  安部首相は自民党総裁選挙の半年前から、信頼する外務省の谷内正太郎事務次官を中国に派遣し、水面下での交渉を続けていたと言われる。ぎりぎりの9月末までも、中国の戴秉国(タイ・ピンクオ)筆頭外務次官が来日し、話し合いのやりとりを続けていた。

  政治には表面に出ない裏の交渉が不可欠である。日朝平譲会談では、当時の田中外務省アジア太平洋局長がお膳立てをした。こうした裏方の活躍なしにはこじれた関係は修復しない。
  日本では、「安倍氏が4月に靖国神社を参拝していたことがわかった」との報道が流れていた。だが、安倍氏は新政権発足後も「行くか行かないか、行ったか行かなかったかは言わない」と語るだけだった。 靖国参拝をやめれば支持層の反発を買い、参拝すれば中韓との関係改善は遠のく。安倍氏の周辺では、この矛盾を解決するため「あいまい戦術」をとるよう進言する側近がいるらしい。

  中国側は、「安倍首相が靖国参拝しないと確約しなければ、首脳会談には応じられない」との立場は崩していなかった。だが、その前提条件にこだわりすぎれば、改善のタイミングを逃しかねない。安倍首相の訪韓が固まったことも横目でにらみつつ、「会談に応じる決断をした」 ということであろう。
  一方、首相官邸では安倍首相が韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領と電話で話し、早期に首脳会談を開こうと呼びかけた。この後、間をおかず韓国政府から「中秋の連休明けの10月9日ならありがたい」と伝えられた。
  韓国は以前から「日本で新政権が発足したら、すぐに首脳会談を開いて関係を改善したい」と日本側に繰り返し伝えていた。安倍首相は、韓国の積極的な姿勢を中国を牽制する材料にも使ったものと思われる。

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  首相が北京に入る8日は、中国共産党の年間の最重要行事である中央委員会全体会議の初日である。しかし胡錦涛(フー・チンタオ)国家主席、呉邦国(ウー・パンクオ)全国人民代表大会常務委員長、温家宝(ウェン・チアパオ)首相というトップ3が軒並み会談する破格の厚遇ぶりであった。
  いかに中国側が安部訪中を期待し、日中のこじれた関係修復を望んでいたかは、下記の写真の数々からも読み取れる。北京空港では、タラップを降りてくる安部首相夫妻が巷の話題となった。頑固さで中国政府を困らせた小泉前首相と異なり、明恵夫人とお手手をつないだ姿は新しい日本との関係を予感させたわけでもあるまいが..............。あいにく、いくら探してもタラップを降りる仲良しの写真は発見できなかった。

安部首相のメルマガ写真集より引用抜粋

  日本の首相が北京を訪れたのは、01年10月の小泉前首相以来5年ぶり。胡主席は会談で、靖国問題について「中国人民の感情を傷つけた。政治的障害を除去してほしい」と語り、安倍首相にも参拝自粛を求めた。
  これに対し、安倍氏は「決して軍国主義を美化するものでも、A級戦犯を賛美するものでもない」としつつ、「行くか行かないか、行ったか行かなかったかは、言わない」と明言を避けた。また安倍首相は会談で歴史認識について「我が国がかつてアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与え、傷跡を残したことに対する深い反省のうえに戦後60年の歩みがある」と説明。胡氏は「日本がこれからも平和発展の道を前進することを望んでおり、そうなると信じ、評価している」と答えた。両首脳は有識者による日中歴史共同研究の初会合を年内に開催することで合意した。

  今回靖国問題は横に置いた感じの会談ではあったが、今後、安部首相により靖国神社参拝が行われた場合には、元の木阿弥と化する可能性は秘めている。満州事変勃発75周年の式典後の9月19日夜、瀋陽市の事件現場近くに集まった市民は1万人以上に達した。警備当局は1000人規模の厳戒態勢を敷いたが、式典後、興奮した市民ら数百人が警察官らともみ合いとなった。「日本製品を買うな」「打倒小日本」などと叫びながら、「日の丸」を焼いた。
  式典には同市幹部らが出席し、「国辱を忘れるな」などと演説。市内では一斉に警報が鳴り響き、タクシーなどもクラクションを鳴らした。市民らは近くの路上で「日本軍国主義を打倒せよ」などと書かれた「日の丸」を掲げ、反日的なスローガンを繰り返した。

  中国当局は式典会場に入る市民の数を制限するなどし、暴力的な行動を抑制しようとの姿勢であった。一部の市民が過激な行動に走った形だが、日本側の対応次第では何時起きてもおかしくない事件と考えられるものである。
  首脳レベルでは当面矛をおさめた靖国問題も火種として抱えた問題であることは、はっきりしている。これからも、決しておざなりに出来ない最重要課題である。今回の訪中では、「中国側で大きく触れることを避けただけ」であり、いつまでも「曖昧なままに」放置することは出来ないことも明白である。今、「南京大虐殺記念館」も3倍規模へと改築中なことも知るべきであろう。


      「美しい国、日本」とは
    

  安部首相の著書「美しい国へ」が書店に棚積みされている。最近みたら、売れている書物のナンバー2くらいにランクされていた。

 「美しい国、日本」とはどんな国なのか、総理記者会見で述べていることを聞いても具体的なイメージが湧かない。無理して言わんとす

 るところをまとめる、とつぎのようなことになる。

1.美しい自然や日本の文化や歴史や、そして伝統を大切にする国を作る。

2.しっかりと環境を守っていく。また、そうした要素の中から培われた家族の価値観というものを再認識していく必要がある。

3.自由な社会を基盤として、しっかりと自立した、凛とした国を目指していかなければならない。

4.そのためにも教育の改革が必要である。そして規範を守る経済でなければならないと思う。

5.今後力強く成長していく、エネルギーを持ち続ける国でなければならないと思う。

6.今日よりも明日がよくなっていく。みんなが未来に希望を持てる国にしていきたい。

7.しっかりと成長していく経済、強い経済をつくってまいりたい。そのために、イノベーション、オープン、人材の育成が大切である。

8.世界の国々から尊敬され、愛される、リーダーシップを持つ国でなければならない。

9.世界に対して日本の、言わば国柄、カントリー・アイデンティティーをしっかりと発信をしていく国を目指していきたい。

10. 多く国々が、また多くの人たちが日本を目指す。そういう方々に日本に来ていただける環境をつくっていくことも重視をしていきた
  い。

  日本が世界の国々から信頼され、そして尊敬され、子どもたちが日本に生まれたことを誇りに思える「美しい国、日本」を創って
  まいりたいと思う。

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  安部首相の言われる「美しい国」とは夢ほども遠い、美しくない日本が次から次へと現れてくる。これでは「美しい国」という発想が生まれるのも当然なのかも知れない。

        滝川いじめ自殺:女児の遺書の写し、報告せず紛失…道教委

  北海道滝川市の小学校教室で、昨年9月に自殺を図り今年1月に死亡した6年生の女児=当時(12)=の自殺原因について、滝川市教育委員会は事件から1年以上たってようやく遺書の内容からいじめがあったと認めて陳謝した。
  よく、この種の事件が起きると教育委員会や校長、教頭などが記者会見を行う。その際の言い訳は概ね決まっている。日ごろから自殺した生徒などに、その兆しは無かった。全く分からなかったというわけである。オッチャンは、おかしいと思う。実際に生徒に接触していない校長などが生徒の気持ちなんか分かるもんか。担任の教師が最も把握している事柄の筈なのに、その教師が姿を現すことは少ない。何も知らない校長などが話したり、謝っても意味をなさない。いつも、ウソがウソを呼ぶ。

  同市教委は、これまで「いじめの事実が確認できない」と説明してきた。自殺を事故、遺書を手紙と呼び換えて責任を回避してきたのである。自殺を図った当日、教壇には学校あてなど7通の遺書を残していたにもかかわらずだ。遺族は自殺を図った翌日、病院に見舞った市教委幹部に遺書を見てもらうよう申し出ていたが、受け取りを拒否していた事実も判明している。

  なぜ学校や市教委は自殺に真正面から向き合おうとしなかったのか。滝川市長が遺族宅を訪れて謝ったが、母親(37)は面会しなかった。遺族の不信感は大きい。 なによりもいじめを訴える女児の心の叫びに耳を貸さなかった責任は免れない。

 「私が死んだら読んでください」と書かれた遺書。クラスにあてた内容にこうある。

 「みんなは私のことがきらいでしたか? きもちわるかったでしたか? 私は、みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました」。学校にあてた遺書にはいじめは3年生から始まり、5、6年生になってエスカレートしたと記している。いじめによる自殺ははっきりしている。
  首をつって自殺した女児は、友人にたびたび「死にたい」と漏らしていた。昨年7月には担任教諭に相談もしていた。教諭は仲間はずれにした児童に注意し、解決したと考えて保護者に連絡していなかった。

 しかし、首をつる直前に行われた修学旅行の部屋割りで女児だけが決まらなかった。学校現場では、女児のこうした状況を把握していなかったのではないか。こんな現場教諭、校長、市教委などに子どもを預けていたと思えば、親は本当にやりきれない気持ちだろう。

     
  福岡・筑前町では教師が自ら、いじめを誘発

  福岡県筑前町では、三輪中学校2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した。この事件では、1年生のときの担任だった男性教諭が男子生徒へのいじめを誘発するような発言をしていたことが判明している。教師本人はクラスを盛り上げるつもりの冗談が、人をあげつらう不快な話になっていることを自覚していなかったという。

  福岡市の男性小学教諭(53)は、同市城南区の中学校で1991年、中三男子に対して担任教諭が率先して引き起こした「葬式ごっこ」事件を思い浮かべ「あの事件は、先生が多くの子どもと同じレベルに並び、被害者の子ども側に立ちきれなかったことが原因だった。あの反省が生きていない」と悔やむ。
  「今回の元担任は、自らの言動が子どもの人権を侵したということをどこまで認識しているだろうか」と語った。同市の30代女性中学教諭は「同僚にもエッ? と思うこと(生徒の陰口)をつい話してしまう先生はいるが、それを教室で生徒に話すというのはちょっと考えられない行為だ」と批判している。同市の中学校に勤める50代女性教諭は、「似たような教師を何人か知っている」とも言う。

  これでは生徒の教育以前に、教師の適正検査も定期的に行う必要がありそうだ。そういえば、わが家の上階に住んでいた高校教諭一家も、自宅の浴室不具合からオッチャンの家に湯水を大量に落としていた。水は下から上に流れることはないのに、がんとして非を認めず、原因が判明したら一言の謝罪も無く引っ越していった。安部さん、児童や生徒よりも、まず、教師教育基本法でも作ってもらいたいものである。人の道とは何か、倫理観を教えてほしいものだ。

         
役人天国 5年間で出勤7日 2700万円の給与

 
毎日、数えきれがないほど出てくる公務員の汚職。奈良市で発覚したこの不祥事は、役所のルールに基づいて支払ったものだとの言い訳だ。病気だ、なんだと書類さえ出せば「5年で出勤7日、給与2700万円」がもらえる仕組みとは、いったい何を考えているのか。市民の貴重な税金を騙し取る奴もひどいが、支払うほうも何処か完璧にマヒしている。狂っている! 呆れ果てて物も言えないとは、このことだ。  
  怒りを納めるために、せめて楽しい写真でも眺めるとしましょうか。                               (C.W)


シンジラレナイ !    一番 森本も、 二番 田中賢介も この鎌ケ谷から生まれた